
住友の原点は、愛媛・新居浜の山の中の別子銅山だ。地味な金色の石、黄銅鉱が、財閥を一つ育ててしまった。皇居前広場の楠木正成像も、この山の銅で作られ、1900年に住友が献納したものだ。
別子銅山は1691年(元禄4年)から1973年まで、283年間、住友が掘り続けた。総産銅量65万トン、坑道の総延長700km、いちばん深いところは海面下1,000m。数字が大きすぎて、正直、頭に入らない。700kmの穴を、人が掘った。
出たのは黄銅鉱(CuFeS₂)のほか、輝銅鉱(Cu₂S)や斑銅鉱(Cu₅FeS₄)。どれも銅の硫化鉱物だ。海底火山の熱水が積もらせた硫化物の層が、あとで変成岩の中に取り込まれた。そこが別子の変わったところだ。
県全体で見ると、北に三波川変成帯の青石、真ん中に秩父帯、南に四万十帯、そして石鎚山の火山岩。四国の地質の主な顔ぶれが、愛媛一県にそろう。
石鎚山(1982m)は四国最高峰で、大昔の火山がつくった安山岩などの山だ。名前に「石」が入る山は、石好きとしては素通りしにくい。
砥部焼は、砥石を切り出したあとのくずを原料にして始まった磁器だ。石の切りくずが、白い器になった。捨てるはずのものが、名物になる。
愛媛で石を拾いに行くなら、行き先は愛媛で石を探す|関川のエクロジャイトと別子銅山、地底80kmの岩に会うにまとめた。ここでは、石が残した愛媛の歴史をたどる。
別子の鉱床——三波川変成帯が生んだ「別子型鉱床」
別子の鉱床は、山の名前のまま「別子型鉱床」として教科書に載る。舞台は三波川変成帯。プレートの沈み込みで、海の地殻が高い圧力と低い温度で変成を受けた岩の帯だ。その中に、海底火山の熱水でできた黄銅鉱や黄鉄鉱(FeS₂)の薄い層が、地層と平行に帯のように延びる。
| 別子銅山の基本データ | 詳細 |
|---|---|
| 操業期間 | 1691〜1973年(283年間) |
| 総産銅量 | 約65万トン(国内2位) |
| 坑道総延長 | 700km(最深部は海面下1,000m) |
| 銅品位(江戸時代) | 10%以上——現在のチリ産(1%前後)の10倍 |
| 鉱床タイプ | 「別子型鉱床(キースラーガー)」——世界の教科書に載る鉱床形式 |
品位の話をすると、今チリやペルーで掘る銅鉱石は1%前後。江戸時代の別子では10%を超える鉱石が出た。100kgの石から、銅が10kg以上。これで住友は富豪になった。山で言えば、最初の一山が大当たりだった。
山の上の都市——最盛期に12,000人が暮らした鉱山町
発祥の地「旧別子」は、標高1,000〜1,300mの険しい山の中にある。開坑から4年後の1695年には2,700人が山中に暮らし、最盛期には12,000人。学校も医療施設も神社も市場もある町が、山の上にあった。今は廃墟で、石積みの跡が森の中に残る。
「東洋のマチュピチュ」と呼ばれる東平(とうなる)は標高750m。1916〜1930年に採鉱本部が置かれた。選鉱場や貯鉱庫、社宅の跡が森に残り、その眺めがアンデスの古代都市にたとえられた。今はマイントピア別子の東平ゾーンとして公開されている。
マイントピア別子では、坑道跡の見学と砂金採り体験ができる。銅山で砂金というのも妙な取り合わせだが、皿を振れる場所は貴重だ。
煙害と四阪島——社運を賭けた無人島への移転
別子の影が煙害だ。製錬で出た亜硫酸ガス(SO₂)が周りの田畑を傷め、農民と住友の争いが長く続いた。同じころの足尾銅山・渡良瀬川の鉱毒事件と並ぶ、近代化が生んだ初期の公害の一つだ。
総理事の伊庭貞剛が出した答えは、新居浜沖20kmの無人島・四阪島への製錬所の移転だった(1905年)。費用は当時の別子の純利益2年分にあたる約170万円。島は最盛期に5,500人以上が暮らす町になった。ところが煙は海を越えて広がり、1939年に硫煙処理装置ができるまで問題は続いた。島に移しても、煙は言うことを聞かなかった。
拾うなら肱川、見るなら四阪島
四阪島には一般の人は渡れない。島は新居浜の海辺から眺めて、続きは展示で追う。見えるのに渡れない島というのも、それはそれで記憶に残る。
| 鉱石・地質 | 特徴 |
|---|---|
| 黄銅鉱(CuFeS₂) | 別子銅山の主要銅鉱石・金黄色の光沢 |
| 輝銅鉱(Cu₂S) | 鉛灰色〜黒色・銅品位79%の高品位鉱石 |
| 黄鉄鉱(FeS₂) | 銅鉱石と共生する立方体自形結晶 |
| 三波川変成岩(青石) | 愛媛北部・プレートの沈み込み証拠 |
| 石鎚山の火山岩 | 四国最高峰をつくる安山岩など・「石の山」の名の由来の山 |
拾う側の話をすると、県西部に肱川(ひじかわ)がある。大洲盆地の河原には、緑色片岩・砂岩・チャート・花崗岩の礫が混ざる。一本の川で、四国の地質の見本帳がめくれる。
石鎚山の渓流には、火山岩と変成岩の礫が転がる。名前だけの石の山ではない。川の中まで、ちゃんと石の山をしている。
鉱石の通り道はこうだ。別子山の地下で黄銅鉱を掘り、索道で山を下ろし、船で瀬戸内海を渡り、四阪島の製錬所で銅にする。マイントピア別子の展示で地図の上をたどると、283年が一本の道に見える。
金色の石に、緑が浮く
銅の鉱石は、表情の忙しい石だ。別子の鉱石で目を取られるのは、母岩に走る孔雀石の緑だ。産業遺産の話をひととおり読んでも、石を長く見てきた目は、結局石そのものに戻る。
緑は、銅がそこにいる証
主役の黄銅鉱は、真鍮のような金色に光る。それでも標本として見栄えがするのは、表面に浮いた緑の錆、孔雀石のほうだ。石の世界では、ときどき錆のほうが出世する。
金色の黄銅鉱と、孔雀色の二次鉱物。同じ銅から生まれた二色が、一つの石に同居する。派手な石はほかにもあるが、一個で二度おいしい石はあまり無い。
石を掘るということの、重さ
石を見る側にいると、この話は軽く流せない。きれいな鉱物も、もとをたどれば誰かが山に手を入れて取り出したものだ。別子は、その代償と、100年以上かけた植林で緑を戻すところまで見せてくれる。
孔雀石の緑に見とれたあとで、山の緑のことを考える。別子は、そういう順番で効いてくる産地だ。
森に還ってゆく石積み
石の目で見ておもしろいのは、東平の石積みが、別子で採れた緑色片岩などの変成岩で組まれていることだ。銅を掘った同じ山の石で、人の暮らす町を築いた。地面から出た石が建物になり、また森へ還っていく。
掘って、積んで、役目を終えたら森に返す。石と人の付き合いが一周するのを、ここまで静かに見せる場所はあまり無い。遺構の石は持ち帰らず、見るだけにしておく。

よくある質問
Q. 別子銅山を観光できる?
できる。「マイントピア別子」(新居浜市)の端出場ゾーン(観光坑道・温泉・物産館)と、東平ゾーン(産業遺産)が公開されている。端出場では観光トロッコで坑道を走れる。
Q. 愛媛の石をどう巡ればいい?
マイントピア別子で銅の鉱石を見て、東平の石積みを歩き、肱川で礫を拾う。見る石と拾う石を、一日で分けられる。
Q. 銅の鉱石は今も手に入る?
鉱物標本として出回る。別子産の黄銅鉱や孔雀石も、ミネラルショーで見かける。
石好き次郎から
別子の主役は黄銅鉱だ。金色に光るが、黄鉄鉱より柔らかく、硬度3.5〜4でナイフの傷がつく。河原で金色の石を拾って浮かれる前に、まず刃先で試す。たいてい、金ではない。
石が産業を生み、産業が公害を生み、公害が技術を生んだ。同じ山から、全部出てきた。愛媛では、関川に行ったことがある。その程度の縁でも、この山の話は他人事に読めない。


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