朝鮮人陶工が見つけた石がヨーロッパの磁器を変えた——李参平と有田焼、佐賀の陶石の奇跡

佐賀の石と地質——産地の歴史写真
石好き次郎
有田焼の白さは、石から来ている。泉山の陶石を砕いて焼くと、白磁になる。土ではない。石を1300度で焼いている。

佐賀の石でいちばんおもしろいのは、河原の石ではない。食器棚の中にある。有田焼の白は、山の白い石を砕いて焼いた色だ。1616年(元和2年)、朝鮮人陶工・李参平が有田泉山で、その磁器の原料「陶石(とうせき)」を見つけた。

それまで日本に磁器はなかった。瀬戸も常滑も備前も丹波も、焼いていたのは「陶器」だ。中国・景徳鎮の白く薄い器に届かなかったのは、腕の差より「土の差」だった。磁器には陶石(ケイ酸を多く含む変質流紋岩)が要る。その石が、まだ見つかっていなかった。

李参平は20代で朝鮮から日本に連れてこられた陶工だった。鍋島藩の多久家に預けられ、白磁に合う土を求めて鍋島領内を何年も歩いた。最後にたどり着いた有田・泉山の山肌に、白い石があった。

陶石の中身は、石英・長石・カオリナイト。流紋岩が熱水で変質してできた白い石だ。これを1,300℃前後で焼くと、白く硬く、光を通す器になる。河原でこの石が転がっていても、私ならたぶん素通りする。白くて地味だ。その地味な石が、400年の産業の元だった。

この記事は読み物だ。佐賀の河原や浜で実際に拾うなら、佐賀で石を探す|朝鮮半島まで運ばれた黒曜石の山と、世界初の鉱物のほうが役に立つ。

目次

陶石とは——磁器と陶器を分ける「石の差」

陶器と磁器の差は、ひとことで言えば原料の石の差だ。陶器は粘土を1,000〜1,200℃で焼く。磁器は陶石を砕いた粉を、1,300℃前後で焼く。高温でケイ酸が溶けてガラス質になるから、あの白く透ける肌になる。食器棚の白い皿は、言ってしまえば焼き固めた石だ。石好きとしては、ちょっと得をした気分になる。

項目陶器磁器
原料粘土(アルミナ・鉄分含む)陶石(ケイ酸を多く含む)
焼成温度1,000〜1,200℃1,280〜1,300℃
質感ざらっとした土の質感・不透明ガラス質・白く薄い・半透明
叩いた音鈍い音澄んだ金属音に近い
日本の代表例備前焼・萩焼・丹波焼有田焼・九谷焼・波佐見焼

李参平の旅——朝鮮から有田泉山まで

16世紀末、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)で、多くの朝鮮の陶工が日本に連れてこられた。鍋島直茂に伴われて佐賀に来た李参平も、その一人だ。

李参平はまず有田西部の乱橋(現三代橋)に登り窯を築いた。そこには陶器と磁器を同時に焼いた形跡が残る。陶器を焼きながら、白磁はあきらめていなかった。探す人は、見つかるまで探す。そして有田東部・泉山で良質な白磁鉱を見つけ、近くの上白川・天狗谷窯で日本初の白磁を焼いた。1616年、鍋島直茂公に磁器を献上。有田焼はここから始まった。

李参平は1655年(明暦元年)に亡くなるまで有田に留まり、120名以上の陶工集団を束ねた。死後3年の1658年、有田皿山代官の命で陶山神社(すえやまじんじゃ)が建てられた。李参平は、のちにこの神社で陶祖として祀られる。石を見つけた人が、神様になった。

有田町の丘には陶祖碑が立ち、毎年5月4日に陶祖祭がある。韓国と日本の関係者が並んで参列する祭りだ。李参平の子孫は14代まで続き、今も作陶を続けている。白い石ひとつの発見が、400年たってもまだ終わらない。

石好き次郎
白い石を見て「これだ」と思えた人が、1616年の有田にいた。石を見る目ひとつで、産業がひとつ立ち上がった。

有田焼がヨーロッパへ——123万個の陶石製品

17世紀中頃、明から清への王朝交代で、ヨーロッパの貿易商は景徳鎮の磁器を買えなくなった。そこで目を向けたのが日本だ。VOC(オランダ東インド会社)を通じた有田焼の輸出は、慶安3年(1650年)から宝暦7年(1757年)までに、公式記録だけで123万個。佐賀の山の石が、それだけの皿や壺になって海を渡った。

ヨーロッパでは「イマリ(伊万里)」の名で広まった。のちにドイツのマイセン、フランスのセーブルが磁器を焼き始めるが、その手本の一つが有田焼だった。泉山の白い石がそんな所まで行ったと思うと、多摩川の小石を眺めている身としては、少し気が遠くなる。

泉山磁石場——400年掘り続けた山の今

泉山磁石場(国指定史跡)は、1616年から400年以上掘り続けられた採石場だ。写真で見ると、山がごっそり削られ、白い岩肌がむき出しになる。あれが全部、器になった。

いまの採掘はほとんど無く、有田焼の原料は主に熊本県・天草の陶石に移った。佐賀の器の中身が、いまは熊本の石。そこが少しおかしい。史跡なので石は拾わず、見るだけにする。ふだんは柵で囲まれ、外観の見学はできる(問い合わせは有田町観光案内所)。

有田焼の種類と石の関係

様式名特徴時代
初期伊万里素朴で余白を生かした作風。朝鮮陶工の感性と中国絵柄の融合17世紀前半
古九谷様式青・黄・緑を基調とした色絵磁器。かつて加賀産とされたが、今は有田産とする見方が有力17世紀中頃
柿右衛門様式乳白色の生地に上品な赤を主調。輸出向け最高級品17世紀後半〜
鍋島様式藩窯で焼いた藩主・将軍への献上品。最高品質の泉山陶石使用17世紀後半〜

よくある質問

Q. 有田焼と伊万里焼は別物?
同じものだ。有田で焼いた磁器を伊万里港から積み出したので、海外では「伊万里(IMARI)」の名で知られた。今も「伊万里・有田焼」と並べて書かれることが多い。焼いたのが有田町、船を出したのが伊万里港だ。

Q. 有田で窯元やろくろの見学はできる?
できる。見学や体験を受け付ける窯元や施設があり、成形から絵付けまでの工程を間近で見られる。受け入れは施設ごとに違う。

石好き次郎
「IMARI」の名で海を渡った皿を、マイセンが必死にまねた。手本の中身は、佐賀の山の石だ。

有田焼・佐賀の地質ガイド——磁器石の地質と日本磁器文化400年

地質・石材料有田焼との関係
泉山陶石(磁器石)有田焼の原料・流紋岩が熱水変質した石英・長石・カオリナイト混合物
石英(SiO₂)磁器の骨格・焼成時に透明感・硬度を生む
長石(フェルドスパー)高温で溶融し磁器粒子を結合・透明ガラス質を生む
カオリナイト(高嶺石)磁器の可塑性(成形性)を生む粘土鉱物
東松浦玄武岩佐賀北部・玄界灘側の玄武岩台地

陶石の鉱物学——磁器の原料となる石の科学

陶石は、流紋岩の長石が熱水でカオリナイト(Al₂Si₂O₅(OH)₄)などに変わった岩石だ。火山の岩が熱い水に長くつかって、別の石になった。皿一枚の手前に、そういう地下の長い風呂がある。

白磁の白さの秘密——石英とカオリナイトの融合

有田焼の白は、石英とカオリナイトが高い温度で焼き締まった色だ。鉄分が少ないほど白くなる。だから李参平は、鉄の少ない陶石を求めて何年も歩いた。河原で色の付いた石にばかり目が行く人間には、白い石を探し続ける根気がまぶしい。

絵付けの色は鉱物——コバルト・鉄・銅

有田焼の絵付けは、青がコバルト、赤が鉄、緑が銅。色の数だけ鉱物がある。美術館のガラス越しでも、「この青は鉱物だ」と思って見ると、皿の前で立ち止まる時間が長くなる。

有田ポーセリンパークでは、陶石の原石を見ることができる。白い岩が磁器の原料だと目で確かめてから器を手に取るのが、順番としてはいちばんいい。

名護屋城(肥前)の石垣には、東松浦の玄武岩と脊振山地の花崗岩が混ざる。豊臣秀吉の朝鮮出兵の拠点として急いで築かれた城だ。黒っぽい石と白っぽい石が並ぶ石垣は、「どこから運んだのか」を考えるだけで退屈しない。

釉薬も石だ。長石・石英・灰が高温で溶けたガラスの層で、中身はどれも鉱物から来る。素地も石、肌も石。有田焼は、上から下まで石でできている。

佐賀には花崗岩も火山の岩もある。その中で、泉山という一か所だけが磁器に合う陶石に変わっていた。李参平はその場所を、自分の足で見つけた。地図も分析機も無い時代に、だ。

佐賀の脊振山地(せふりさんち)には花崗岩・変成岩が広がる。嘉瀬川(かせがわ)の河原には花崗岩・変成岩・砂岩の礫があるという。陶石とはまるで違う顔の石だ。拾う石を探すなら、たぶん有田よりこちらになる。

有明海(ありあけかい)は干満差が約6mもある浅い海で、有明粘土という粘土がたまる。九州山地の花崗岩・変成岩が風化した粒が、川で運ばれて沈んだものだ。山が削れて、海の底になる。

有田の白さは、石の白さだ

有田焼の白い器は、もとをたどれば砕いた石だ。白い岩を粉にし、水で練り、高温で焼き固める。石を仕入れて人に渡す商いを長く見てきたが、石がここまで暮らしに入り込んだ形はそう見ない。宝石とは別の道で、石が人の役に立った土地だ。

磁器は「砕いた石」でできている

石を粉にして、もう一度固め、火で別のものに作り替える。磁器づくりは、人間が石をいちばん大胆に扱う技術の一つだと思う。その上に毎日おかずを載せて平気なのだから、人間もなかなか図太い。

原料の山から器まで、一つの町で追える

有田には、原料の山、窯元、白い器という「石から製品まで」が一つの町に収まる。原石がどう砕かれ、どう焼かれ、どんな器になったか。全部を一つの町で追えるのは、石好きには相当ぜいたくだ。

石好き次郎から

佐賀には、まだ行けていない。泉山の白い崖も、写真でしか知らない。だからこの記事は、歩いた話ではなく、調べて分かったことだけで書いた。行っていない場所のことは、行っていないと書く。

調べていちばん驚いたのは、陶石が単体で磁器になることだ。カオリンと石英と長石が、最初から一つの石にそろう。粘土を混ぜる必要がない。人が工夫する前に、石のほうが準備を済ませていた。

李参平は、その石に出会うまで何年も歩いた。石を探して空振りする日のほうが多いのは、20年やってもまったく変わらない。向こうは国の産業を、こちらは河原の一個を探しているだけなのに、だ。

山の石が、大陸をまたいだ。いつか泉山の前に立てたら、この記事はそのとき書き直す。

石好き次郎
山ひとつ分の白い石が、400年かけて皿になった。食器棚を開けるたびに、ちょっとした地質の展示室だ。
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有田の白が石なら、瀬戸の白も石だ。「瀬戸物」の原料は石だったで、愛知の器を足元の地層から読み直せる。

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この記事を書いた人

石好き次郎
石を拾って20年、仕入れて売る仕事もしてきた。実際に見て、触って、確かめたことだけを書く。

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