聖武天皇は「日本に金はない」と思っていた。
745年から奈良で始まった東大寺大仏(盧舎那仏)の建立計画——巨大な銅の仏像を金色に輝かせるためには大量の金が必要だった。しかし当時の日本では金の産出記録がなく、聖武天皇は全量を中国からの輸入に頼るつもりだった。ところが749年(天平21年)、陸奥国小田郡(現在の宮城県涌谷町)から「国産の金が出た」という報告が届いた。天皇は「神仏の加護だ」と大喜びし、東大寺に行幸して大仏に直接報告した——今で言えば「プロジェクトの進捗を仏様に報告に行く」という行為だ。この国内産の金が、大仏の黄金の輝きを生んだ。

大仏の金メッキ——「水銀で金を溶かして塗る」技術
大仏の黄金の輝きは「消鍍金(けしめっき)」という方法で施された。水銀(Hg)は金(Au)を常温で溶かし込む性質がある——金を水銀に近づけると「金アマルガム(金と水銀の合金)」が形成される。この金アマルガムを大仏の銅製表面に塗り付け、火であぶると水銀が気化して金だけが表面に残る——これが消鍍金だ。
| 消鍍金の工程 | 石・鉱物の視点 |
|---|---|
| ①金(Au)を水銀(Hg)に溶かす | 金アマルガム(Au-Hg合金)の生成——水銀鉱物(辰砂:HgS)から水銀を取り出す |
| ②金アマルガムを銅像表面に塗布 | 銅(Cu)の表面への均一塗布——当時の銅成分:93.2%銅・スズ・砒素 |
| ③火であぶる | 水銀が気化(357℃以上)——水銀蒸気が発生(猛毒) |
| ④金だけが表面に残る | 薄い金の層(金メッキ)が銅像に固着 |
この工程で発生する水銀蒸気は猛毒だ——東大寺大仏の建立には255万人以上が関わったとされるが、鍍金作業に携わった職人には水銀中毒者が多数出たとされる。大仏の黄金の輝きは、多くの人の犠牲の上に作られた。「石(水銀鉱物・金鉱物)の性質を使った技術」が、奈良時代の最大の建築プロジェクトを支えた。
大仏の銅——山口県から来た?
大仏に使われた銅の成分分析(1988年発掘の熔銅塊)によると、銅93.2%・スズ1.9%・砒素3.0%・銀0.2%という組成だった。銅の原産地については諸説あるが、山口県・長登銅山(ながのぼりどうざん)産が有力な説の一つだ——秋吉台の石灰岩地帯近くにある長登銅山は奈良時代に大規模な操業記録がある。「山口の石(銅鉱石)が奈良の大仏になった」という可能性がある。
奈良の石——二上山と春日山の地質
奈良の石文化で大仏以外にも注目すべき場所がある。大阪・奈良県境の「二上山(ふたかみやま)」——香川のサヌカイト(讃岐岩)と並ぶ、縄文・弥生時代の石器材料「サヌカイト」の主要産地だ。二上山産サヌカイトは奈良盆地・大阪・近畿一帯の縄文・弥生遺跡から大量に出土しており、大仏が建つ奈良の地は数千年前から「石の産地」だった。
春日山・若草山の地質は花崗岩を主体とし、奈良市周辺の低地は大和川流域の沖積地だ。吉野郡の山地は石灰岩地帯(天川村の洞川温泉・みたらい渓谷)と変成岩・花崗岩が交互する複雑な地質で、奈良県南部は吉野・大峰山地の険しい地形とともに鉱物・石材の産地になっている。

よくある質問
Q. 東大寺大仏はどのくらいの金が使われましたか?
奈良時代の記録によると鍍金に使われた金の量は約440kgとされている(諸説あり)。現在の大仏は1692年(元禄5年)に江戸時代に修復された部分が多く、当初の天平時代の姿が残るのは腰から下の一部のみとされる。1274年の蒙古襲来で頭部が焼落し、1567年の戦乱でも大仏殿ごと焼失するなど、大仏は複数回の破損と修復を経ている。
Q. 二上山でサヌカイトを採集できますか?
奈良県葛城市・香芝市周辺の二上山周辺に採集スポットがある。ただし公有地での採集可否は場所によって異なり、二上山都立自然公園内での採集は制限されている。香芝市二上山博物館では二上山産サヌカイトの展示と地域の石器文化の解説が充実しており、実物標本を見るのにおすすめだ。
石好き次郎から
奈良は「石が歴史を作った場所」だ——縄文人が二上山のサヌカイトで石器を作り、聖武天皇が陸奥の金で大仏を輝かせ、水銀アマルガムという鉱物の技術が千年以上大仏の輝きを守った。「石が文明を支える」という事実が、奈良では一か所に凝縮されている。


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