奈良の大仏を作った金は東北の砂金だった——749年の発見が変えた日本の歴史と石の力

奈良の石と地質——産地の歴史写真
石好き次郎
砂金の皿の底に、光る点がひとつ残る。あの点を、大仏一体ぶん集めた人たちがいた。考えるだけで、肩が凝る。

奈良の大仏を金色にしたのは、749年に陸奥国小田郡(いまの宮城県涌谷町)で出た、国産の金だ。東北の川の砂が、都の仏を飾った。話の始まりは、聖武天皇が「日本に金はない」と思っていたことにある。

745年、奈良で東大寺大仏(盧舎那仏)の建立が始まった。銅の巨大な仏を金色にするには、大量の金がいる。だが当時の日本には金の産出記録がない。聖武天皇は、全部を中国からの輸入でまかなうつもりだった。

そこへ749年(天平21年)、陸奥国から「金が出た」と報せが届く。天皇は「神仏の加護だ」と大喜びし、東大寺に行幸して大仏に直接報告した。プロジェクトの進捗を、仏様に報告しに行ったわけだ。

奈良は、河原より先に町で石に会う県だ。寺の礎石も、飛鳥の石造物も、町の中に立つ。それでも、話のいちばん奥にあるのは、遠い東北の川の砂だった。

石の歴史を読んで、奈良で石を拾ってみたくなったら奈良・滋賀に宝石は眠る?ガーネットとトパーズを追うへ。行き先は、そちらにまとめてある。

目次

大仏の金メッキ——「水銀で金を溶かして塗る」技術

大仏の金色は「消鍍金(けしめっき)」で付けた。水銀は金を常温で溶かし込む。できた金アマルガム(金と水銀の合金)を銅の表面に塗り、火であぶる。水銀だけが飛んで、金が残る。石の性質ひとつで、仏が金色になる。

消鍍金の工程石・鉱物の視点
①金(Au)を水銀(Hg)に溶かす金アマルガム(Au-Hg合金)の生成——水銀鉱物(辰砂:HgS)から水銀を取り出す
②金アマルガムを銅像表面に塗布銅(Cu)の表面への均一塗布——当時の銅成分:93.2%銅・スズ・砒素
③火であぶる水銀が気化(357℃以上)——水銀蒸気が発生(猛毒)
④金だけが表面に残る薄い金の層(金メッキ)が銅像に固着

そのとき出る水銀の蒸気は猛毒だ。大仏の建立には延べで数百万の人が関わったと言われ、鍍金の職人には水銀中毒が多く出たとされる。あの輝きは、ただでは手に入らなかった。

大仏の銅——山口県から来た?

1988年に発掘された熔銅塊を分析すると、大仏の銅は、銅93.2%・スズ1.9%・砒素3.0%・銀0.2%だった。産地は諸説あり、有力な説の一つが山口県の長登銅山(ながのぼりどうざん)。秋吉台の石灰岩地帯の近くで、奈良時代に大規模に操業した記録がある。山口の石が、奈良で仏になったのかもしれない。

銅が山口から来たなら、飛鳥の石は足元から来た。亀石・猿石・酒船石・益田岩船は、奈良県産の花崗岩や凝灰岩で作られた。誰が、何のために。今も答えが出ていない。分からないまま、ずっとそこに置いてある。それが飛鳥の石のいいところだ。

石好き次郎
何のために作ったのか分からない石を、千年以上だれも片づけなかった。分からないものを、分からないまま置いておける。奈良の人は、気が長い。

奈良の石——二上山と春日山の地質

大阪との境にある二上山(ふたかみやま)は、香川と並ぶサヌカイト(讃岐岩)の主要産地だ。二上山のサヌカイトは、奈良盆地・大阪・近畿一帯の縄文・弥生の遺跡から大量に出てくる。大仏が来るずっと前から、奈良は石の産地だった。

春日山と若草山は花崗岩の山で、奈良市のまわりの低地は大和川の運んだ土だ。南へ下ると、天川村の洞川温泉やみたらい渓谷のあたりで石灰岩が顔を出す。吉野・大峰の険しい山では、石灰岩と変成岩、花崗岩が入り組む。南へ行くほど、河原の顔ぶれがにぎやかになる。

室生川上流の室生寺は、花崗岩と変成岩の渓谷に建つ。石段や石垣にも、地元の花崗岩と変成岩が組み合わされている。山の石で山の寺を組んだ。運ぶ手間を考えれば、いちばん筋が通る。

初瀬川では、花崗岩や変成岩の礫が拾える。長谷寺へのお参りと、河原が同じ道筋に並ぶ。手を合わせたあとで、足元を見る。奈良らしい寄り道だ。

吉野川の流域でも、古代から砂金採りが行われた記録がある。金は東北だけの話ではなかった。大仏の金が遠くから来たぶん、足元の砂金は忘れられがちだ。

奈良で石に会う——河原と、拾わない場所

二上山のサヌカイトは、葛城市・香芝市側に産地がある。ただ史跡や公園、私有地が多く、拾える場所はかぎられる。実物を手に取った気分になりたいなら、香芝市二上山博物館の展示が早い。

河原で拾うなら、盆地の縁が手軽だ。御所市のあたり、葛城山(かつらぎやま)のふもとを流れる葛城川では、花崗岩や変成岩の礫が拾える。山奥まで行かなくても、石には会える。

地域・石文化特徴
飛鳥石造物亀石・猿石・酒船石(花崗岩・凝灰岩)
東大寺大仏台座・礎石(地元産花崗岩・砂岩)
春日大社約2000基の石燈籠(花崗岩・砂岩)
吉野・大峰石灰岩・変成岩・花崗岩が入り組む山
大台ヶ原花崗岩地質景観(多雨侵食地形)

三輪山(大神神社)は、山そのものが御神体だ。そして斑れい岩の山でもある。周りと違う岩体が地表に出た山を、人が神として拝んだ。地質の目で見ると、そう読める。石好きには、少し出来すぎた話だ。

吉野川の河原は、礫の顔ぶれがにぎやかだ。石灰岩、花崗岩、変成岩、流紋岩、チャート。吉野の山の地質が、一本の川に集まる。この川の上流の川上村には、行ったことがある。下流の河原の一個にも、あの村の山から来た石が混じる。そう思うと、礫に地名がつく。

拾わない場所だけ、ここでまとめておく。春日山原始林は特別天然記念物で、841年から狩猟も伐採も禁じられてきた森だ。寺社の境内、史跡、国立公園の特別地域、私有林でも、石は持ち帰らない。遺跡で打ち欠いた石を見つけたら、それは石器なので置いていく。ふつうの河原で手で拾う分には、身構えなくていい。

二上山は、凝灰岩(二上石)の産地でもある。古代から石棺や石造品に使われた。刃物になる硬い石と、彫りやすい柔らかい石が、同じ山から出る。ずいぶん気の利いた山だ。

「大仏の金」を石の目で見る

大仏を石の目で見ると、いちばん面白いのは金の出どころだ。あの金は奈良の金ではない。商売の場で石の札を長く見てきたが、出どころが言える石は強い。金も同じだ。

大仏の金は「東北から来た」

都から遠い東北の川の砂が、国家事業のど真ん中を飾った。川底でじっとしていた粒が、いちばん目立つ場所へ出世した。

石が文明を支えるということ

二上山の石が縄文人の道具になり、陸奥の金が大仏を輝かせ、水銀と金の技術がその輝きを生んだ。「石が歴史を作った」と書くと大げさに聞こえる。奈良の場合は、ただの目録だ。

石好き次郎
サヌカイトの見分け方は簡単だ。持って、爪で弾く。乾いた高い音がすれば当たりだ。それだけで分かる。

大仏の金と奈良の石、よくある質問

Q. 東大寺大仏にはどのくらいの金が使われた?
A. 奈良時代の記録では約440kgとされる(諸説ある)。ただ今の大仏は、1180年の南都焼討で頭部が焼け落ち、1567年の戦乱で大仏殿ごと焼け、1692年(元禄5年)の修復を経た姿だ。天平の姿が残るのは、腰から下の一部だけとされる。

Q. 水銀アマルガムの技法は今も使われている?
A. 有害な水銀を使うので、今の宝飾ではまず使わない。

石好き次郎から

大仏の金を見せるために、毒を使った。

砂金の皿を振る身としては、最初に光る粒を見つけた誰かの顔を、つい想像してしまう。涌谷には今も砂金採りの体験ができる場所がある。奈良で大仏を見上げて、東北の川で皿を振る。749年の話が、急に手の中の話になる。

大仏殿の礎石は、奈良周辺で採れる花崗岩だ。柱を受け止める大きな石で、主役の金よりずっと地味だ。私は、こっちの石のほうが気になる。

石好き次郎
奈良の河原の石は、見た目が地味なものが多い。それでも行きたくなるのは、この土地の石が古代の日本人に何をしたかを、考える時間が好きだからだ。
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大仏の金が出た涌谷は、いまの宮城だ。砂金採りの体験と化石の海岸は宮城で石を拾える場所にある。

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この記事を書いた人

石好き次郎
石を拾って20年、仕入れて売る仕事もしてきた。実際に見て、触って、確かめたことだけを書く。

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