
西暦57年に後漢の光武帝が倭の奴国王へ贈った金印は、1784年(天明4年)、福岡・志賀島の田んぼの石の下から出てきた。水路を直していた農民の甚兵衛が大きな石をどけると、3つの石が箱のように組まれ、その中に金色の小さな印があったと伝わる。福岡の石でいちばんおもしろいのは、金そのものより、金を守った石の箱だ。
刻まれた5文字は「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」。教科書に載る国宝が、田んぼの修理で出る。石の下は、のぞいてみるものだ。
その印が、今は博物館のガラスケースの中で毎日人に見られる。2000年近く石の下で誰にも会わずにいたのだから、印にしてみれば、急に人前へ引っぱり出された気分だろう。
金印の金は、中国大陸の金鉱床から来たとされる。熱水の通り道で石英の脈にたまり、掘られ、精錬され、印になり、海を渡り、志賀島の土に埋まった。石英脈から田んぼまで。金という鉱物の経歴としては、かなり波乱が多い。
志賀島は、博多湾の入口に浮かぶ小さな島だ。見つけたのは学者ではなく、水路を直していた人だった。いいものは、だいたい探していない時に出る。
石の歴史を読んで、福岡で石を拾ってみたくなったら福岡で石を探す|香春岳・金辺川・平尾台、石灰岩と鉱物の県を歩くへ。行き先は、そちらにまとめてある。
金印の「石」——金95.1%の鋳造品
石好きの目で見ると、金印は石ではない。金に銀と銅を少し混ぜた合金を、型に流し込んで作った鋳造品だ。混ぜ物があるぶん、比重は純金より軽く出る。重さも寸法も、表にすると、ずいぶん生々しい国宝だ。
| 金印の物性データ | 詳細 |
|---|---|
| 材質 | 金(Au)95.1% + 銀・銅が微量 |
| 重量 | 108.729g(10円玉の約24枚分) |
| 印面寸法 | 2.347cm(漢代官印の「方一寸」に一致) |
| 比重 | 17.94(純金の理論値19.32より低い——銀・銅混合のため) |
| 製法 | 鋳造(金を溶かして型に流し込む) |
| つまみ | 蛇がとぐろを巻いた形——南方異民族の王を示す後漢の様式 |
つまみは、蛇がとぐろを巻いた形だ。後漢の外交では、つまみの形で「どこの誰に与えたか」を表した。蛇は南方の異民族の王に与える形だという。皇帝から見れば、奴国の王は南の方の王だった。
弥生時代の福岡——東アジア交流の最前線
博多湾の入口の志賀島は、大陸からの航路の玄関口にあたる。弥生時代、糸島半島の伊都国と福岡平野の奴国のあたりが、漢の王朝との交渉の窓口だった。金印が福岡から出たのは、たまたまではない。
弥生時代の九州北部では、サヌカイトや黒曜石が石器の材料だった。糸島や博多湾のまわりの遺跡からは、長崎県・壱岐の黒曜石が出る。海を渡って石を運んでいたわけだ。多摩川に通うだけの身としては、頭が上がらない。
福岡市の今山遺跡は、弥生時代に地元の玄武岩で石斧をたくさん作った場所だ。2000年前の工場の原料が、今も地面に出ている。海の向こうの黒曜石と、足元の玄武岩。金の印が届いたころ、この土地の人は両方で道具を作っていた。
金印の出た島の小石は、ただの花崗岩だ。値段はつかない。それでも「どこの石か」を聞けば、話が一つ増える。石の値打ちの半分は産地が作る。商いの場で、それを何度も見てきた。この小石は、残りの半分がゼロなだけだ。
元寇の石の長城——博多湾20キロの防塁
元寇の石の長城とは、博多湾の海岸に築かれた石の壁「元寇防塁」のことだ。1274年の文永の役のあと、鎌倉幕府が九州の御家人を集め、1276年に築かせた。東の香椎から西の今津まで、総延長は約20キロとされる。
1281年の弘安の役では、この壁が博多の浜への上陸を阻んだとされる。元の船団は浜をあきらめ、志賀島に取りついた。金印が眠っていた島が、こんどは戦場になった。
積まれたのは花崗岩や砂岩など、何種類もの石だ。金印と違って、どれも名前のない石だ。今も西新・生の松原・今津などに一部が残り、700年以上たっても海のほうを向いて並んでいる。

見るだけの石と、拾える石
福岡で石を見に行くなら、見るだけの場所と拾える場所を先に分けておく。防塁は国の史跡で、遺跡の石も見るだけ。拾うのは川と浜でやる。
| 場所 | 石 | どうする |
|---|---|---|
| 元寇防塁(西新・生の松原・今津ほか) | 花崗岩・砂岩など | 国の史跡。見るだけ |
| 今山遺跡(福岡市) | 玄武岩 | 打ち欠いた石は石器。拾わない |
| 糸島の浜(二丈など) | 花崗岩の礫 | 手で数個なら拾える |
| 筑後川の河原 | 花崗岩・変成岩・阿蘇の火山岩 | 拾える |
| 犬鳴川の上流(宮若市) | 花崗岩・変成岩 | 拾える |
糸島半島は、弥生の伊都国があった場所だ。芥屋海岸や二丈海岸の浜には、花崗岩の礫が多い。弥生の人が石器の石を探した土地で、今は週末の人が石を拾う。2000年たっても、やることはあまり変わらない。
筑後川は、脊振山地の花崗岩・変成岩と、阿蘇山の火山岩の礫が混じる川だ。上流に顔のちがう山が二つあると、河原の石の種類が増える。一つの河原で、山を二つ拾える。
宮若市を流れる犬鳴川の上流には、花崗岩と変成岩の礫がある。福岡市から約40分。脇田温泉が近い。河原で冷えた手を湯で戻せる場所は、それだけで点が高い。
錆びない金と、黙っていた石
金は、錆びない。それを2000年分の実物で見せてくれるのが、志賀島の金印だ。掘り出されたとき、錆も変色もなかった。石を長く手にしてきて、この「変わらなさ」には、いつも少し負けた気がする。石は割れるし、欠けるし、色も褪せる。
錆びない金属だから、二千年生きた
金は、酸にもアルカリにもほとんど侵されない。爪とほぼ同じ硬さのやわらかい金属なのに、土の中ではびくともしない。銀や銅の印なら、錆に文字を食われていたかもしれない。皇帝の選んだ金が正しかったのか、金という金属が偉かったのか。答えは両方だ。
金属の重さは、嘘をつかない
金は比重が約19と、同じ大きさの鉄の2倍以上重い。私も石を手に取ると、まず重さを見る。軽い「金色」は、だいたい金ではない。金印も、小さいのにちゃんと重そうな顔をしている。
石の箱が、金を守った
金だけでも腐りはしない。でも石の箱があったから、印は動かず、人の手から隠れたままでいられた。金の丈夫さと、石の目隠し。役割のちがう二つが組んで、外交の証しを今まで運んできた。
派手なのは金だ。でも2000年、黙って上に乗っていたのは名もない石のほうだ。展示ケースに入るのは金印だけで、石の名前は誰も覚えていない。石好きとしては、そこが少し悔しい。

よくある質問
Q. 金印の本物は見られる?
見られる。ふだんは福岡市博物館(福岡市早良区)の常設展示にある。ただし同館は大きなリニューアルを予定していて、休館の時期は決まりしだい公式に出る。行く前に一度見ておく。志賀島の金印公園には発見地の石碑とレプリカがあり、博多ふ頭から市営渡船で約30分。
Q. 金印はなぜ石の下にあった?
分かっていない。わざと石の箱に納めて埋めたのか、たまたま石の下にあったのかも議論がある。有力なのは「誰かが意図して石で囲んで埋めた」という説だ。理由はどうあれ、2000年守ったのは石だった。
Q. 子どもと楽しめる?
楽しめる。「なんでずっと錆びないの?」が一つ出れば十分だ。答えを先に言わず、ケースの前で一緒に首をかしげるくらいがちょうどいい。
石好き次郎から
福岡には行ったことがある。金印の話になると、いつも同じところで手が止まる。2000年、上に石が乗っていた、というところだ。
石の下には、何かある。たいていは虫で、金印ではない。なのに河原で大きな石を見ると、少しだけ持ち上げてみたくなる。

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