原爆の熱が石に人間の影を焼き付けた——広島の影石と宮島の花崗岩、石が記録した1945年

広島の石と地質——産地の歴史写真
石好き次郎
爆心地の近くでは、花崗岩の表面が熱線で白っぽく荒れた。溶けて泡立ったのは、屋根瓦のほうだ。石が記録したのは、人間がやったことだ。

広島の石は、一億年前の地質と、1945年8月6日の朝を、同じ一枚の表面に持つ。

1945年8月6日午前8時15分。住友銀行広島支店の石段に、一人の人が腰を下ろして、銀行が開くのを待っていた。爆心地から約260m。その人は熱線を受けて即死し、石段に「人影(ひとかげ)」が残った。周りの石の表面は白っぽく変わり、座っていた場所だけが影のように黒く残った。この「人影の石」は、いまも広島平和記念資料館にある。

石は、覚えている。そう言い切っていいのは、この石があるからだ。

熱線は、爆心地に近い石の表面を一瞬で変えた。その重さを言葉にしようとすると、言葉のほうが足りなくなる。被爆石は、拾う石とは別の棚にある。

広島の地質の土台は花崗岩だ。広島湾岸の広島型花崗岩、中国山地の変成岩、太田川がつくった沖積平野。宮島も、広島城の石垣も、市街の下の砂も、たどれば花崗岩に行き着く。

広島で石を拾いに行くなら、行き先は広島で石を探す|県の地盤の4割が同じ石。拾える川と、拾えない島にまとめた。ここでは、石が残した広島の歴史をたどる。

目次

原爆と石——熱線が残した刻印

爆心地周辺の地表は、3,000〜4,000℃に達したとされる。ただし一瞬だ。熱は石の奥まで入らず、表面だけを変えた。花崗岩の石英は573℃で急に体積を変えるので、焼けた面は荒れて、薄く剥がれることがある。爆心地から600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡のようになった。

焼け方には向きがある。爆心を向いた面は強く焼け、裏側は焼けていない。石は、熱がどこから来たかを、いまも指している。

広島は「花崗岩の街」——地質が都市の骨格を作る

広島市の地盤は、太田川の三角州だ。川が中国山地の花崗岩地帯を削って運んだ砂礫が湾に積もり、その上に市街が広がった。地下は砂や砂礫の軟らかい地盤で、厚さ10〜20mに達する。

広島城の石垣も、地元の花崗岩だ。天守は原爆の爆風で倒れたが、石垣は残った。いまの天守は、その石垣の上に建て直されたものだ。

花崗岩は、風化すると真砂土(まさど)になる。崩れやすい土で、2014年の広島土砂災害の背景にも、この真砂土がある。街を支える石は、崩れるときも街を巻き込む。

石好き次郎
花崗岩は、どこにでもある石だ。どこにでもある石が、ここでは、どこにもない記録を抱えている。

宮島——花崗岩の島に建つ世界遺産

宮島(厳島)は、ほぼ全体が花崗岩の島だ。白亜紀、約8,000万〜1億年前の花崗岩が、瀬戸内海の波に削られてきた。弥山(標高535m)の巨岩も、岩礁の続く海岸も、その削り残しだ。広島はあちこち回った。厳島神社には2回行った。それでも、この島を石の目で語れるほどには、まだ見ていない。

厳島神社の大鳥居(今の鳥居は1875年の建立)は、海底に柱を埋め込んでいない。約60トンの自分の重さで立つ。満ち潮では海に浮かんで見え、潮が引けば足元まで歩ける。同じ鳥居が、一日に二度、顔を変える。

弥山の丸い巨岩は、花崗岩が外側から玉ねぎの皮のように剥がれてできた。玉ねぎ状風化という。角から先に崩れ、芯の丸いところが残る。河原で拾う丸い花崗岩とは、丸くなった理由が違う。

広島の「被爆石」——今も市内に残る証拠

被爆石の遺物場所石の状態
人影の石(石段の一部)広島平和記念資料館熱線で白く荒れた石段に、座っていた人の形だけが暗く残る
熱線で泡立った屋根瓦広島平和記念資料館爆心地から600m以内の瓦は、表面が溶けて泡のようになった
被爆した石燈籠・石柱広島平和記念公園内および市内各所熱線方向の面が変色・剥離した花崗岩
爆心地(島病院のあたり)広島市中区大手町上空約600mで炸裂した、その真下

見に行くなら、まず資料館だ。人影の石も、泡立った瓦も、ここにある。地質の言葉は、ここではあまり役に立たない。

拾える石と、拾えない石

場所会える石拾える?
広島平和記念資料館人影の石・熱線を受けた瓦や石見るだけ
宮島(弥山)白亜紀の花崗岩の巨岩見るだけ(国立公園・特別史跡・特別名勝)
三段峡・帝釈峡峡谷の岩壁/石灰岩と化石見るだけ(特別名勝・国定公園)
太田川・江の川のふつうの河原花崗岩・変成岩などの礫手拾いでよい

花崗岩ばかりの広島で、庄原の帝釈峡だけは海の話になる。石灰岩の峡谷で、三億年ほど前の温かい海にいたフズリナやサンゴの化石が残る。瀬戸内の島々に渡ると、また花崗岩に戻る。割れ目から波に広げられた奇岩が、しまなみ海道の島の海岸に並ぶ。

決まりは、この表にまとめた。宮島は瀬戸内海国立公園の中で、島は国の特別史跡・特別名勝でもある。三段峡は特別名勝、帝釈峡は国定公園だ。被爆石は、言うまでもない。ふつうの河原で手拾いするぶんには、私有地でなければ構えなくていい。

石好き次郎
同じ花崗岩が、20キロ離れた街では熱線を浴び、宮島の山では何事もなかったように積み重なる。石は、生まれる場所も、浴びる熱も選べない。

拾えない石が、広島にある

私は20年、石を拾い、磨いてきた。石はいつも「手に入れるもの」だった。だが広島の被爆石だけは違う。拾ってはいけない。持ち帰ってもいけない。ただ、覚えておくためにそこにある石だ。石好きとして、広島は一度きちんと向き合うべき場所だと思ってきた。

採れない石、という石

川原にいると、目に入る石を全部「拾えるかどうか」で見てしまう。長年の癖だ。被爆石の前では、その物差しがまったく効かない。

熱線で変わった花崗岩も、人の影が焼きついた石段も、資料館や慰霊の場で守られ、採ることも触れることも許されない。

石には、越えてはいけない一線がある。それを頭ではなく、石そのものから教わる。河原に拾える石が当たり前に転がる。そのことを、ここでは当たり前と思えない。

一億年と、八月六日

広島の街を支える花崗岩は、白亜紀、およそ一億年前のマグマが地下深くでゆっくり冷えて固まった石だ。石英・長石・雲母。どこにでもある、普通の花崗岩でもある。

その普通の石が、1945年8月6日の朝、熱線を浴びて表面を変えた。一億年かけてできた石に、一瞬の出来事が上書きされた。地質の時間と人の時間が、同じ一枚の石の上で交差する。

石を長く見てきて思う。石は、良い記憶も悪い記憶も選ばずに刻む。マグマの冷え方も、あの朝の熱も、花崗岩は同じように残す。だから被爆石は、消えない証人になった。

花崗岩の街を、石好きの目で歩く

広島の街の下の砂も、川の石も、もとは中国山地の花崗岩だ。海を渡れば、その花崗岩が宮島の姿で残る。同じ石が、街になり、聖地になり、記憶の器にもなった。

被爆の石の前で頭を垂れたあと、宮島の花崗岩の下に立つ。同じ石が、人のいちばん重い記憶を刻み、日本三景の景色もつくる。その落差の上に、復興した広島の街がある。

よくある質問

Q. 人影の石は、いまも見られる?
見られる。広島平和記念資料館に、石段の一部が切り取られて置いてある。常設展示の入館料は大人200円、高校生100円、中学生以下は無料だ。

Q. 影は、いまもくっきり見える?
当時ほどではない。1971年に資料館へ移されるまで屋外にあり、風雨で薄れた。いまはガラスに囲まれて守られている。

Q. 弥山へは、どう上がる?
宮島ロープウエーで山の上のほうまで上がり、あとは歩く。山頂の近くは、花崗岩の巨岩だらけだ。

石好き次郎から

河原では、白い花崗岩はいちばんありふれた石だ。わざわざ持ち帰る石好きは、あまりいない。そのありふれた石の一枚が、広島では人の影を抱えている。拾えない石がある。それを忘れないために、この記事を書いた。

石好き次郎
広島の石の話を書くのは、いつも難しい。地質の説明はできる。それ以上のことを、私は書けない。
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ありふれた花崗岩は、鳥取では砂の山になった。鳥取砂丘の正体は中国山地の花崗岩で、同じ山の石が川と風に運ばれる道をたどれる。

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この記事を書いた人

石好き次郎
石を拾って20年、仕入れて売る仕事もしてきた。実際に見て、触って、確かめたことだけを書く。

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