豊臣の石垣は今も大坂城の地下に眠っている——徳川に埋められた石が語る権力交代の記録

大阪の石と地質——産地の歴史写真
石好き次郎
大坂城の石垣に、100トンを超える巨石がある。「蛸石」だ。瀬戸内の島から、船で運ばれた。江戸時代の技術で、どうやって運んだのか。

大阪の石でいちばんおもしろいのは、大坂城の石垣が二段重ねだということだ。いま見えるのは、徳川が1620年から積み直した石垣。豊臣の石垣は、その下に埋まったまま今も残る。勝った側の石垣が、負けた側の石垣にふたをしている。

豊臣秀吉が大坂城を築き始めたのは1583年。その城は1615年の大坂夏の陣で落ちた。徳川は焼け跡を壊して土を盛り、まったく新しい城を上に積んだ。駆り出されたのは西国の大名を中心に64家。瀬戸内の島や六甲の山から、巨石が船で運ばれてきた。

大阪で石を拾いに行くなら、行き先は大阪・兵庫の川に宝石はある?ガーネットとサヌカイトを探すにまとめた。ここでは、拾えない石の話をする。城の石垣だ。

目次

豊臣の石垣は、徳川の石垣の下に眠る

くらべる点豊臣の石垣徳川の石垣
築いた時期1583年から(秀吉)1620〜1629年(2代将軍秀忠の再築)
積み方形を整えない自然の石を積む割った石を整えて積む。隅や枡形に巨石
石の出どころ記録が少なく、はっきりしない小豆島・東六甲・犬島など瀬戸内の石丁場
いまの姿地下に埋まる(1959年に地下7.3mで確認)地上に見える石垣のほぼすべて
見られる所豊臣石垣館(2025年4月開館)城内のどこでも。蛸石は桜門の枡形

豊臣の石垣が地下に残ると確かめられたのは、1959年の学術調査だ。本丸を掘り下げると、地下7.3mから高さ4m以上の石垣が出てきた。1984年には、金蔵の東側で高さ6mの豊臣期の石垣も見つかる。350年近く誰にも見られず、土の中で形を保っていた。

なぜ壊しきらずに埋めたのか。手間を省いたのか、豊臣の城を見えなくしたかったのか。石は理由を言わない。分かるのは、勝った側の石が、負けた側の石の上に今も座るということだけだ。

埋まった石垣は、いまは見に行ける。2013年から掘り出して見せる事業が進み、2025年4月、城内に「豊臣石垣館」が開いた。形を整えない自然の石を積んだ壁で、上の徳川の石垣より、どこか山の石に近い顔をしている。

蛸石——城でいちばん大きい石

蛸石(たこいし)は、本丸の入口・桜門の枡形にある、城でいちばん大きい石だ。見える面だけで約60平方メートル、畳にして36畳ほど。重さは推定130トンとも、108トンとも言われる。左下の模様が蛸に見えるので、この名がついた。

運ばせたのは岡山藩主の池田忠雄で、備前(岡山)の石だ。産地は瀬戸内の犬島と言われる。修羅という木のソリに載せて大勢で引き、船で海を渡らせた。100kmを超える道のりを、どう無事に運んだのか。細かいところは、いまも分からない。

数字で読むと、かえって実感がわかない。河原で両手で抱える石が、せいぜい20キロ。蛸石はその5千倍を超える。比べる相手を間違えているのは分かる。それでも比べてしまうのが、石拾いの性分だ。

石好き次郎
石垣を見るなら、まず角と入口を見る。大きい石は、たいていそこにいる。見せたい場所に、見せたい石を置く。石の見せ方は、昔も今も変わらない。

大坂城の石垣の石はどこから来たか——小豆島・犬島・六甲

徳川の石垣の石は、瀬戸内まわりの花崗岩が中心だ。香川の小豆島と兵庫の東六甲には、大坂城のために石を切り出した石丁場の跡が残り、どちらも国の史跡になる。小豆島では黒田家や細川家が石を切り、船で大阪へ送った。蛸石の犬島も、この並びに入る。

大阪を代表する石を一つ挙げるなら、大坂城の石垣の花崗岩だと思う。ただし、どれも大阪の石ではない。小豆島、犬島、六甲。よそから来た石が、大阪の顔になった。商都らしいと言えば、商都らしい。

大阪の地質——沖積平野と上町台地

大阪平野の大部分は、川が運んだ砂や泥が積もった沖積平野で、地盤が軟らかい。その中を「上町台地(うえまちだいち)」だけが南北に固く突き出し、大坂城はその北の端に建つ。台地に石材は無いので、石垣の石は瀬戸内から運び込んだ。軟らかい街に、固い足場と、よそ者の石。

平野の地下には、約300万〜30万年前の「大阪層群」が広がり、象やワニ、貝の化石が出る。海が平野の奥まで入り込んでいたころの地層だ。道頓堀の地下に、ワニのいた時代がある。ビルの谷間で地層の断面を思い浮かべる人間は、たぶんあまりいない。

刻印と転用石——石垣で探すもの

徳川の石垣には、大名ごとの刻印が残る。家紋や記号で、どの家がその石を受け持ったかが分かる。種類は約2,000、数は5万〜6万個と推定される。一つ見つけると、目が勝手に次を探し始める。

古い城の石垣には、石仏や五輪塔を積み込んだ「転用石」が混じることもある。とにかく石が足りない、急げ、という現場だったのだろう。仏さまが壁になって城を支える。ありがたいのか気の毒なのか、どちらとも言えない。

拾うなら、淀川と大和川の河原

大坂城の跡は国の特別史跡で、石垣の石も、足もとの石のかけらも持ち帰れない。拾うのは川の側だ。大和川と淀川の河原なら、ふつうに手で拾える。

大和川は奈良盆地から下ってくる川で、二上山のサヌカイトが混じる。黒くて、割れ口がガラスのように鋭い石だ。旧石器時代から石器の材料にされてきたので、打ち欠いた跡のあるものは昔の石器かもしれない。それは拾わずに置いていく。

淀川は、琵琶湖から瀬田川、宇治川と名を変えて下ってくる。高槻や枚方のあたりの河原では、チャート・砂岩・花崗岩が混じる。大都市の真ん中で石が拾える。それだけで、大阪はひとつ得をしている。

場所出会える石ひとこと
大坂城の石垣瀬戸内・六甲の花崗岩特別史跡。見るだけ
大和川サヌカイト・花崗岩・変成岩の礫打ち欠いた跡のある石は置いていく
淀川(高槻・枚方あたり)チャート・砂岩・花崗岩都会の真ん中で拾える
武庫川・芦屋川(兵庫)六甲の花崗岩(御影石)城の石の親戚

城の石の産地の一つ、六甲の花崗岩は、武庫川や芦屋川に礫になって流れ出す。白っぽい地に黒い粒が散る、あの御影石だ。城では見るだけの石の親戚が、川なら手に取れる。

石好き次郎
石拾いの癖がある人は、城では両手をポケットに入れておくといい。拾っていいのは、川に着いてからだ。

商都の石を、石好きの目で歩く

値札がつく前の石を、仕事で長いこと見てきた。だから江戸の大阪の問屋の話には、つい耳が向く。全国の水晶やめのう、珊瑚が大阪に集まり、そこで値がついて流れた、という話だ。どこまで本当か、全部は確かめきれない。それでも、石に値段がつく場所があった、という一点で、この街が気になる。

石に値段をつけた、商人たち

値打ちは、石だけでは決まらない。何が少なくて、何が欲しがられるか。それを知る人の目が、石を値段に変える。その目が一か所に集まったのが、江戸の大阪だった。

一枚の石垣が、地質マップになる

大坂城の石垣は、石の見分けの教材としてよくできている。瀬戸内の島々や近畿各地から、産地の違う石が一か所に集められた。

石垣の前で「これは小豆島か」「こっちは六甲か」と産地を推しながら歩くと、一枚の壁が地質図に変わる。推すのは勝手だが、当たったかどうかを石垣は教えてくれない。

どの石が、どの島から船に乗ってきたか。考え出すと、帰りの電車の時間を忘れる。観光地のはずが、石好きにとっては宿題の多い場所になる。

よくある質問

Q. 石垣の石の産地は、見て分かる?
ある程度は分かる。色や粒の大きさで、小豆島か六甲かを推すことはできる。ただ、答え合わせはできない。

Q. 子どもと行っても楽しめる?
楽しめる。蛸石の大きさと刻印探しは、そのまま宝探しになる。「どうやって運んだの」と聞かれたら、修羅の話の出番だ。

Q. 大阪の地下から出た化石は、どこで見られる?
大阪市立自然史博物館(長居公園)の展示で見られる。大阪層群の象やワニの話は、そこで実物の大きさになる。

石好き次郎から

大坂城の石垣を見て思うのは、石は勝ち負けを気にしないということだ。埋めた側の石も、埋められた側の石も、同じ花崗岩だ。どちらも、何も言わない。

人の側は違う。豊臣の石垣を350年近く土の下に置き、いまは館を建てて見に行く。埋めるのも人、掘り出すのも人だ。石のほうは、たぶんどちらでもいい。

河原の石は持って帰れる。城の石は、誰も持って帰れない。大阪なら、城で目を慣らしてから川で拾う。その順番がいちばん楽しいと思う。

石好き次郎
大阪の石は、拾うより見る石だ。見るだけの石の前で長居できるかどうかで、石好きの度合いが分かる。
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城で目を慣らしたら、川へ下りる。猪名川の赤い粒と、叩くと鳴る大和川のサヌカイトは大阪・兵庫の川に宝石はある?で。

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この記事を書いた人

石好き次郎
石を拾って20年、仕入れて売る仕事もしてきた。実際に見て、触って、確かめたことだけを書く。

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