ホープダイヤモンドに呪いはなかった——カルティエが作った45.52カラットの「物語」

ホープダイヤモンド——45.52カラットの呪われた青いダイヤ写真

ホープダイヤモンドの呪いは、1910年にカルティエが売るためにまとめた物語だ。石そのものは、ワシントンDCのスミソニアン博物館で、45.52カラットの青をいまも静かに見せている。

「持ち主は全員不幸になる」という話で、世界でいちばん名の知れた石の一つになった。だが呪いの証拠とされる話は、調べるほど崩れる。崩れても、見に来る人は減らない。そこがこの石のいちばん面白いところだ。

目次

「呪い」が生まれた日——1910年、パリのホテルの朝食

1910年、ピエール・カルティエは、ワシントンDCの社交界の女性エヴリン・ウォルシュ・マクリーンに、この石を売ろうとしていた。

ただ、相手が手ごわかった。エヴリンは「不幸を呼ぶと言われるものは、自分には幸運を呼ぶ」と公言する人だった。ふつうの売り文句は通じない。

カルティエは、パリのホテルで夫妻が朝食をとる席に現れ、語り始めた。タヴェルニエが石を盗んだこと。ルイ14世、ルイ16世、マリー・アントワネット、ほかの持ち主たちが悲劇をたどったこと。朝食の席でする話ではない。

エヴリンは「呪いなら買う」と決めた。1911年1月28日、約18万ドルで成約。怖い話が、そのまま売り文句になった。

カルティエは商談の前に、新聞に出ていた不運話、タヴェルニエの伝説、インドのヒンドゥー神像の目の逸話をかき集め、一つの物語に組んだとされる(Richard Kurin『Hope Diamond: The Legendary History of a Cursed Gem』2006年)。「呪い」という言葉を一度も使わずに、呪いを語る。うまい、と言うしかない。

石が渡った手——インドからスミソニアンまで300年

1666年頃:フランス人宝石商タヴェルニエがインド・ゴルコンダのコルール鉱山で115カラットの青いダイヤモンドを取得。

1668年:タヴェルニエがルイ14世に売却。対価はほかのダイヤ約1,000個とまとめて22万リーヴル(金147kg相当)+貴族の特許状。のちに(1673年)「フレンチ・ブルー」67.125カラットに再カット。

1792年9月11日:フランス革命の混乱の中、王室の宝石庫が盗賊に5日間荒らされた。フレンチ・ブルーが消えた。

約20年間の行方不明:石はイギリスに密輸され、再カットで45カラットになり「ホープダイヤモンド」として1812年に再登場。

1839年:ロンドンの銀行家ヘンリー・フィリップ・ホープのカタログに初めて登録→石の名前の由来。

1910〜1911年:カルティエが取得し「呪い」の物語を作成。エヴリン・ウォルシュ・マクリーンが約18万ドルで購入。彼女は犬の首にこの石を付けて散歩させた。

1958年11月:ハリー・ウィンストンがスミソニアン博物館に寄贈。輸送方法——書留郵便(茶色い紙で包んだ小包)、100万ドルの保険付き。費用145.29ドル(そのうち2.44ドルが郵送料、142.85ドルが保険料)。

石好き次郎
茶色い紙の包みに、45カラットの青。石の値打ちと人間の扱いは、よくずれる。石の取引を長く横で見てきたが、ここまで派手なずれは知らない。

「呪いの証拠」として語られる話の実態

カルティエが並べた「証拠」は、ひとつずつ崩せる。ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑されたのは革命のせいで、石は関係ない。王妃の評判を地に落とした「首飾り事件」も、別の宝石の話だ。タヴェルニエが野犬に噛み殺された話も後世の創作で、本人は1689年にモスクワで84歳で亡くなった。呪いにしては、手ぬるい。

ギリシャの宝石商が家族ごと崖から落ちた話も、ロシア貴族が女優を撃ってから刺された話も、確かめようがない。怖い話ほど、出どころが書いていない。

スミソニアン側の調べでも、「呪い」の被害者とされる人物の多くは実在が確認できない。

「Hope」という名前の逆説

「Hope」は、銀行家一族の収集家ヘンリー・フィリップ・ホープの姓にすぎない。希望の意味で付けた名前ではない。ただ、呪いの石が「希望のダイヤ」と読めてしまう。そのズレが、また人を呼ぶ。

名前まで、物語の道具になった。

「呪い」の真の効果——集客数の増加

スミソニアン自然史博物館は年に数百万人が訪れる、米国でも来場者の多い博物館の一つで、ホープダイヤはいちばん人気の展示だ。館の公式文書は「呪いはピエール・カルティエが販売のために脚色した可能性が高い」とし、むしろウィンストンの寄贈が宝石コレクションの土台になったと位置づけている。

呪いを否定した博物館で、呪いの石がいちばん人を集める。1910年の売り口上が、100年以上たってもまだ働いている。

UV光の下で「真っ赤に燃える」

ホープには、化学で説明のつく不思議もある。ショートウェーブの紫外線を当てると、燃えるような赤いリン光を放つ。ブルーダイヤの多くは紫外線のあとに光を残すが、色はふつう青〜緑で、ホープほど強い赤はまれだ。

原因は微量のホウ素(Boron)。同じホウ素が、青い色も赤いリン光も生む。呪いの正体を探したら、元素記号が一つ出てきた。

ホープダイヤモンドの主要データ

項目データ石好きの視点
重量45.52カラット世界最大のブルーダイヤモンドの一つ
色ファンシーダーク・グレイッシュブルー(GIA評価)ホウ素(B)の混入が青色の原因
UV蛍光ショートウェーブUV下で赤いリン光ブルーダイヤの中でも特に強い反応
産地インド・ゴルコンダ(現在のハイデラバード近郊)17世紀以前は世界でほぼ唯一のダイヤ産地
原石の推定重量約115カラット(タヴェルニエの記録)再カットで大幅に小型化された
現在地スミソニアン自然史博物館(ワシントンDC)年に数百万人が訪れる無料の博物館

青くなる仕組みはこうだ。ホウ素の原子が、ダイヤの炭素の並びに紛れこむ。ホウ素は炭素より電子が1個少なく、そこに「正孔(ホール)」ができる。この正孔が赤外〜赤寄りの光を吸い、残った青が目に届く。呪いではなく、原子1個の話だ。

紫外線を止めたあとも、ホープはしばらく、肉眼で見える赤い光を残す。励起された電子が元の状態に戻るときに光を出す現象で、ホウ素がつくる特殊なエネルギー準位のせいだ。ほかのブルーダイヤと比べても、光がずっと強い。

ゴルコンダ——ダイヤモンドの伝説的な産地

ゴルコンダの名は、宝石の世界では別格だ。インド南部のクリシュナ川の流域は、17世紀以前に知られたほぼ唯一のダイヤ産地だった。そこで採れた石が、ゴルコンダ砦(いまのテランガーナ州)で取引された。コ・イ・ヌール、ホープ、リージェント、オルロフ。名の通った石の多くが、ここから出た。

18世紀にブラジル、19世紀に南アフリカで新しい産地が見つかり、ゴルコンダの出番は減った。それでも「ゴルコンダ産地」の証明は、いまも特別扱いだ。AGLやSSEFが「Golconda origin」と認めた石は、同じ品質の他産地より高くなる。カシミール・サファイアと同じで、産地の昔話が値札に乗る。

いまのゴルコンダ周辺は、ほぼ掘り尽くされた。新しいゴルコンダの石が市場に出ることは、まずない。持ち主は何度も替わった。石は一度も、青をやめていない。

石好き次郎
石より物語のほうが売れる。悔しいが、それは否定できない。産地の話が付くと値段が上がる。持ち主の話が付くと、もっと上がる。カルティエが呪いを作った理由は、分かりたくないほどよく分かる。

世界の有名ダイヤモンド——ホープと並ぶ名石たち

ホープと並ぶ名石もある。コ・イ・ヌール(105.6カラット・英国王室の所蔵・ロンドン塔で展示)、カリナン(3,106カラット・史上最大の原石・分割されて英国王冠などに組み込まれた)、オルロフ(189.62カラット・エカテリーナ女帝の王笏に収まる緑がかった水色)。どれも、大きさと同じくらい来歴の長さで知られる。

ブルーダイヤは全ダイヤの0.02%以下しかない。2016年にオークションに出た「オッペンハイマー・ブルー」(14.62カラット)は約5,750万ドルで落札され、当時の世界最高記録を更新した。ホープは、その3倍の大きさがある。値段は、考えないことにしている。

よくある質問

Q. スミソニアンのホープダイヤモンドは誰でも見られる?A. 見られる。スミソニアン自然史博物館(ワシントンDC)は入場無料で、「ジャネット・アネンバーグ・フッカー宝石ホール」に常設展示がある。専用ケースで360度から見られ、博物館公式のバーチャルツアーもある。

Q. なぜハリー・ウィンストンは石を博物館に寄贈した?A. 「宝石は公共の財産」という考えからだ。1958年、米国民のためにスミソニアンへ贈った。税制上の優遇もあった。

Q. ブルーダイヤモンドは集められる?A. 気軽には無理だ。1カラット未満の小粒でも数百万〜数千万円する。色の仕組み(ホウ素)を知って博物館の展示を見るのが、いちばん安上がりな楽しみ方だ。

ダイヤモンドの地質学——地球の深部から地表まで

ダイヤは地下約150km以上のマントル、温度1,100〜1,300℃・圧力45,000気圧以上の場所で生まれる。炭素原子が正四面体に組まれたものがダイヤで、同じ炭素の黒鉛(グラファイト)とは並び方が違うだけだ。鉛筆の芯と同じ元素が、首飾りの主役になる。並べ方ひとつで、ずいぶん出世したものだ。

地表まで運ぶのは「キンバーライト」という火山岩だ。時速数十km以上の速さでマントルから噴き上がり、ダイヤを乗せて持ち上げる。ゆっくり上がると、温度と圧力の変化でグラファイトに戻ってしまう。ダイヤは、急いで出てきたから残った。

ゴルコンダのダイヤが「沖積型(川から採れる)」なのは、キンバーライトの岩体が長い侵食で崩れ、ダイヤが川に流れ込んだためだ。南アフリカのキンバリー鉱山(露天掘り)やロシアのミール鉱山(露天掘りのあと坑道)と違い、ゴルコンダでは川の砂礫をふるう、砂金採りに近いやり方だった。皿を振る側としては、ここだけ急に親近感がわく。

ホープダイヤモンドと宝石のマーケティング史

カルティエが作ったマーケティングの先駆け

カルティエが1910年に作った「呪い」の物語は、ブランドの売り方の先駆けとして宝石業界の歴史で語られる。商品に物語を足して、値段と欲しい気持ちを上げる。この手法は、のちにハリー・ウィンストン、ティファニー、グラフといった宝石ハウスも使った。

ハリー・ウィンストンからスミソニアンへ

1958年、ウィンストンがホープを書留郵便で送ったのも、一種の宣伝だった。「世界最高の石が2.44ドルの郵送料で届く」という落差が新聞をにぎわせ、寄贈と宝石ホールの話が全米に広がった。送り方ひとつが、広告になった。

動かせない青と、人が足した物語

ホープから分かるのは、石の値打ちが科学と物語の両方でできていることだ。ホウ素の青、紫外線の下の赤い光。ここは誰にも動かせない。300年の持ち主の行き来、カルティエの口上、ウィンストンの郵便。こちらは人間が足した。

石好き次郎から

ホープダイヤの話でいちばん面白いのは、呪いを作ったカルティエ本人が、呪いの被害者に数えられていないことだ。作った本人だけ、呪いの外にいる。

売りたい側が呪いを作り、買いたい側に「呪いなら怖くない」と言わせた。よくできた仕組みだ。「石の価値の半分は物語だ」と私はよく口にするが、その物語は人の手で作れる。ホープは、その一番派手な証拠になった。

エヴリン・ウォルシュ・マクリーンは、この石をパーティの「宝探し」に使い、犬の首に付けて散歩させた。呪いを怖がらない自分を、石で見せていたのだろう。カルティエの物語に乗って、彼女も自分の物語を作った。石の周りで、二人がうまく使い合った。

ホープの値打ちを押し上げたのは、石ではなくカルティエだった。ただ、土台の石が偽物だったわけではない。あの青も、赤い光も本物だ。物語は、本物の上でしか長くはもたない。

石好き次郎
ホープダイヤの実物を、私は見たことがない。ワシントンまで行く理由が、まだ見つからない。多摩川で拾った赤いチャートのほうが、手の中で長く持っていられる。世間から見れば、おかしな話だと思う。
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ホープの物語より前に、あの青が一度消えた夜がある。フランス王室の宝石が革命の夜に消えたは、パリの宝物庫から石が持ち出された5夜の話だ。

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この記事を書いた人

石好き次郎
石を拾って20年、仕入れて売る仕事もしてきた。実際に見て、触って、確かめたことだけを書く。

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